重苦しいまでの星空が大地にのしかかっていた。何も視界を覆うものがないこの場所ではまじまじと見上げていれば、そのまま呑まれてしまいそうになる。今夜は月がない。
昔の神殿か、宮殿の跡の、一際荒れ果てて、天井も柱もほとんど朽ちてしまった一角で、は倒れた白亜の柱に腰を落ち着けていた。その腕には山吹色と黒色で塗り分けられた大きな鉢を抱えている。
「お前も物好きだよなあ」
壁の残骸にもたれ掛っていたエシディシがしみじみと呟いた。は鉢の中に手を入れる。赤く、とろりとした液体の中に沈んでいる、赤く染まった塊を慎重に掬い上げる。滑り落として駄目にしてしまってもつまらない。
「それってなんだ？」
エシディシが怪訝な目で訊ねる。
「無花果を葡萄酒で浸けたもの。美味しいのよ」
つるりと無花果を口の中に収め、はエシディシに微笑んだ。そして、腕を伝ってきた液体を舐めとる。
「俺にはわからねぇ趣味だな」
エシディシは、血だか内蔵だかを啜ってるみたいでまるで吸血鬼じゃあねぇか、と大げさに体を震わせて見せた。
「エシディシはつまんないわねぇ。毎回毎回、養分を吸収するだけなんて、味気ないじゃない。栄養摂取が食事の本来の目的ではあるけれど、口を楽しませてくれる精神的な充足も大事だわ」
はそう言って、また無花果に手を伸ばす。つい先日人間の町を一つ潰したときに、民家で見つけたのが無花果の葡萄酒漬けだった。一口含んでその甘さと食感と鼻に抜けていく香りが気に入り、また口にしたい、と思った。はそうした気に入った人間の食事を作らせるために吸血鬼の女を一人飼っているので、それに今回も作らせた。初めて食べたものより、少し香りが足りないかしら、葡萄酒の質が違ったか、それとも浸ける期間が悪かったかしら、そんなことを考えながら、指先から葡萄酒の雫を舌に落とす。
「お」
エシディシが小さく声を上げたので、は彼の方を見た。
「帰ってきたぞ。あいつ、すげぇ機嫌悪いから気を付けろよ」
エシディシはそう言い残して、に「あいつ」を押し付けるように壁を飛び越え、姿を消してしまう。がそれを気にする様子もなく、無花果で頬をいっぱいにしていると、廊下の暗がりからエシディシの言うあいつ、カーズが姿を現した。彼の言う通り、見るからにイラついた表情で足取りも荒く、のいる広間に入ってくる。
カーズはの姿を認めると、そちらへ、足を踏み鳴らさん勢いで歩み寄った。
はカーズを見上げる。
「おかえりなさい」
カーズの禍々しいまでの視線も平然と受け流し、はいつも通りの言葉をかけた。カーズはの手元に目をやる。
「…何をやっている」
「無花果を食べているわ」
は鉢の無花果の一つを持ち上げて見せた。彼女の指の隙間から葡萄酒がすり抜けて、鉢の中へ戻って行く。それに見下すような視線を向けた後、カーズはくるりとに背を向け、隣と言えなくもないが、そう断言するには少し離れている石段の上へ腰かけた。そこはここでは一番高い場所で、彼の無意識の気位を表しているようだ、とは少し可笑しくなった。
は立ち上がると、彼が拒絶しないのを試すように緩慢な動作でカーズの上腿に腰を下ろした。そして、鉢を傍らに下ろす。
「どうしたの？ カーズ。こんなにイライラして」
がカーズの頬に触れて覗き込むと、彼は口をますますへの字に曲げる。
「どうもしない」
「あら、そう」
それ以上、問い詰めようとする意志はにはなかった。は素っ気なく言葉を結び、カーズの大腿に乗ったまま、鉢の無花果に手を伸ばす。それが不満だったのか、カーズは突然、の手が葡萄酒に達する前に、中の無花果を掴み出し、自分の口へ放り込んでしまった。
「あーあ。それが最後だったのよ」
無花果の味が染み出た赤葡萄酒を、腕から盛大に滴らせて無駄にしながら、カーズはしかめっ面で口の中の果物を咀嚼して飲み下す。そして、に勝ち誇ったような目線を向けて、鼻を鳴らした。
は軽くため息をついて、カーズのせいで飛び散った葡萄酒を自分の肌から指の腹で拭い取る。そして、それを舐めてしまうと、カーズには見向きもせずに立ち上がった。侍女にした吸血鬼が、一度使った葡萄酒を加えて作ると、とろみや味の深みが増すかもしれない、と言っていたことを思い出したので、善は急げと思ったのだ。もう少し、香りが強い物が良い、と伝えれば、女はそのように工夫してくれるかしらん。使い勝手の良い人間を吸血鬼にできたものだ、とは己の心眼を自讃した。
すたすたと歩き出そうとしたところで、手首を引かれた。
「どこへ行く？」
が振り向くと、相変わらずひどく不機嫌そうなカーズの目とぶつかった。
「私の吸血鬼のところへ。残った葡萄酒で、次の葡萄酒漬けを作らせるの」
すると、カーズの眉間のしわが一層深くなる。
「わたしより、その嗜好品を優先するのか」
「だって、あなたが食べてしまったんでしょう？ 私がせっかく味わって食べていたのに」
はカーズの頬を指先でなぞる。カーズの口元がまたしてもひどくねじ曲がっていくのをは面白そうに眺め、もう一度、カーズの上腿へ腰を落ち着かせた。
「ねえ、言ったら？ カーズ」
の口角が美しい弧を描く。それが気に入らないのか、ますますカーズのまとう空気が不機嫌になる。
「ねえ」
がふふふ、と笑いを漏らしながら促すと、カーズは自分の手をの顔の前につきだした。
「舐めろ」
その指には葡萄酒が付いている。もう乾き初めてこびりついているところもあった。
は少し目を丸くしたが、すぐに目を妖艶に細めて、カーズの指先を唇に挟んだ。そして、舌を巧みにうねらせて、指を包み込み、一本一本を葡萄酒の味がしなくなるまでしゃぶる。乾いてベタついたところは自分の唾液を含ませて溶かしてから綺麗にしてしまう。手のひらの手相の筋までなぞり終えると、今度は舌を腕の方へ伝わせていき、腕に残されていた葡萄酒の通った筋を残らず消していく。そうしながら、が挑発的にカーズを見やると、彼は不機嫌と満足をにじませてを見下ろしていた。は口角を上げて目を伏せ、肘まで辿り着き、大切な葡萄酒が雫になって地面に落ちただろうところを、丁寧に吸い上げた。そして、綺麗になった指を甘噛みする。
「ねえ、カーズ」
は微笑み、カーズを見つめた。それに応えて、カーズが空いている手で腰を焦らすように撫でる。は嬉しそうな素振りで小さく身をよじると、カーズの肩を強く押す。彼はそれに抗わず、白亜の床に横たわった。
カーズは、自分にのしかかり上半身だけを起こしたを不敵に見上げる。の肩から髪がこぼれ落ちて、カーズの肌に触れそうだ。星空を背にが口角をきゅっと上げる。蠱惑的な瞳が細められ、赤く輝いた。よろこびを抑えきれない口元が微かに開き、カーズの首筋に吸い付く。カーズは満足そうに息をついた。
「最初からこうしていれば良いものを……」
「カーズこそ、私に嫌がらせなんかしなければよかったでしょう？」
はカーズの首に浮かぶ太い筋を唇ではみ、鎖骨まで下っていく。が顔を上げたので、カーズはその髪をゆったりと撫でた。が心地よさそうに口元を弛める。カーズがそれに気分を良くして、その項に手をかけ、引き寄せようとしたところで、カーズの胸元に冷たい感覚が広がった。それはが鉢から流れ落とした葡萄酒だった。
カーズは一瞬目を見開いた。しかし、引き締まった筋肉の隙間を流れていく酒をが舌で追うのを見て、また恍惚とする。の艶やかな髪が葡萄酒を含んで、カーズの肌にべたりと貼り付いている。
「それを使って、また葡萄酒漬けを作らせるのではなかったのか？」
カーズは鼻を鳴らした。
はカーズの臍の溝を奥まで丹念に舐めると、顔を上げる。その口元は赤く汚れている。
「あなたの肌の上に乗ってる方が数倍美味しい」
は愉悦に満ちてうっとりとして、口の周りを舐めた。カーズは喉の奥で笑って、今度こそその顔を引き寄せる。は促されるままにカーズに乗り上がり、自分の柔らかな素肌とカーズの固い体躯を重ね合わせる。葡萄酒にまみれたカーズの肌はベタついて、の肌にぴたりと張り付いた。
がカーズに口づける。男として、女として、互いにどこまでも官能的な唇同士が合わさり、やわらかく吸い付いた。そして、自然と呼応するように二つともが僅かに開く。熱い舌が絡まると、二人の果てしない生の中でも出会ったことがないほど芳醇で、爛熟した葡萄酒の味が、お互いの舌から染み出た。
(2014.08.24 byずわ）