古風な引き戸の開く音がして、玄関から「ただいま」という落ち着いた声が聞こえてくる。それと同時に、は背筋を凍らせた。塗りの座卓の前でくつろがせていた体を、慌てて正座に正し、体を強張らせる。トントントントン、といつも通り、全くたがわない数の足音を響かせて、吉良吉影が畳張りのリビングに顔を見せた。
「ただいま」
「おかえり、なさい」
はうつむいたまま、か細い声で答えた。吉良は一人嬉しそうに、持っていた荷物を投げ出して、畳の上に跪くと、の手を取り上げる。そして、その手にどこか傷ができていないか、感触が悪くなっていないか、爪が割れてなどいないか、入念に調べ始める。それが一通り済んで、異常が認められないと、彼は満足そうにため息を吐き、その手に頬を寄せる。するりと、吉良のなめらかな頬を撫でさせると、の手を膝の上へ戻し、彼は通勤カバンのほかに持ち帰った紙袋を取り上げた。
「職場でね、メロンを貰ったんだ。どうやら、取引先から送られてきたようなのだけれど、女の子たちが自分たちはほかのものを貰ったからぜひ私に、とね」
吉良は微笑みながら、の手を見ている。は黙っていた。以前に、何か返して、口にガムテープを貼られたことがあるので、彼の発言には極力応答しないことにしていた。
「もう食べ頃らしいから、早速切って、食べよう」
吉良は立ち上がり、キッチンへ行ってしまった。は息をつく。頬を撫でさせられた感触が、手に残っている。それだけでは泣きたくなった。
まな板と包丁を洗ったのであろう、水の音がすると、あっという間に吉良は戻ってきた。その手にはサラダボウルを持っていて、その中に角切りにされたメロンがこんもりとよそわれている。
「先割れスプーンで手を傷つけたら、大変だからね」
彼は微笑んだ。そして、畳の上に器を置くと、の膝を枕にして寝ころんだ。
「食べさせてくれるかい？」
吉良と目が合ってしまった。その目元が、綻んでいる。は狼狽した。けれど、慌ててメロンをぶちまけてしまわずにガラスの器を手に取ることはできた。
しかし、その器には、フォークもようじもなく、困ってしまった。おずおずと吉良の目をもう一度見ると、彼はまた笑う。
「君の手で、その指で、食べさせて欲しいんだ」
吉良は、の、器を持っていない手を握った。は悪夢であってほしい、と息を詰まらせた。しかし、どんなに願っても、これは現実でしかない。嗚咽を飲み込んでじっと待っても目は覚めない。
は震える手でメロンの一つをつまんだ。そして、恐る恐るそれを吉良の口へ近づける。彼は目を閉じて、口をひらいた。はその中にメロンをそっと落とす。吉良はゆっくりと咀嚼して、それを飲み込んだ。
「さすが、贈答品のマスクメロンだな。君も食べてみると良いよ」
彼の勧めは、もちろん命令でしかない。は、恐怖でどんどん冷えていく指先でメロンを取り、自分の口へ運んだ。それを吉良がじっと見ている。
「おいしいかい？」
は無言で頷く。恐怖とは裏腹に、贅沢な果物は極上と言って良いほど、美味しかった。鼻に抜けていく香りも果肉から溢れる果汁もどれをとっても“幸せ”を思わせる味だ。それが余計にを泣きたくさせた。
「もう一つ」
吉良が口を開いたので、は先程と同じように、メロンを口の中に落とし、手を戻そうとした。しかし、その手首を唐突に吉良が掴む。そして、があっと声を上げる前に、その指先を口に含んだ。
は喉の奥から漏れそうな悲鳴を飲み込み、手を引っ込めそうになるのを必死でこらえた。口の中で生暖かくなり、唾液と混ざったメロンを無理矢理かき混ぜさせられる。凍り付くの指を、吉良は何度も音を立てて吸い上げると、ゆっくりと吐き出した。
「本当に、おいしい」
彼の目がとろけそうなほど、悦楽に溺れている。彼は再度口を開く。は唾液のぬめりと震えで、何度もメロンを滑り落としながら、やっとのことで吉良の口にそれを持っていった。やはり、今度も吉良はの手を離さず、存分に舌先で舐っていく。一本一本の指を丁寧に舐め、指の股を伝い、その付け根を異様に舌で探った後、指先に戻り、爪と皮膚の間に舌を差し入れるようにして爪の先を執拗になぞる。今度は唾液が滴るほどにぬめらせたまま、指を口から出した。
「ああ。君の手は実に素敵だ」
うっとりと呟いて、吉良は唾液で濡れた手に頬を擦り付ける。吉良の頬に唾液がこびりついて、わずかに光った。熱い溜息を吐いた後、吉良はの手の引き、自分の腰の方へ導いていく。は吐きそうになる。また、悪夢より酷い夜が始まるのだ。絡めとられた自分の手が一方的に動かされ、ぬるつく感触に堪えながら、男が異常に興奮し果てる様を延々と見続けなければならない。スラックス越しに触れさせられた下腹部の熱さと昂ぶりに、は、早く殺してほしいと今夜も心の中で請うた。
(2014.06.21 ずわ）