「まあ、葡萄ですか？」
いつもはきちんと挨拶するが、入ってきた開口一番にそういったので、珍しい、とプッチは本から目を上げた。それに自身も気付き、赤面して「ごきげんよう」と慌てて口にする。
「ごめんなさい、私、葡萄に目がないものだから、つい……」
「ふふふ、食べて良いよ。農家の方からいただいたんだ。今年は出来が良いと言っていたよ」
「ありがとう、神父様」
は持ってきたバスケットを棚の上に置くと、プッチの向かい側に座った。太陽の陰に入り、少しひんやりとしているこの部屋は、プッチの自室に当たる。壁は白塗りで、簡素な調度品で統一され、彼の愛読する本が棚に収まる。清潔感と質素さと、加えて穏やかな静寂を感じさせる雰囲気は彼そのものと言ってもいい。
ちょうど世間はお茶の時間だ。果物を食べるにはちょうど良い。せっかくだから、早速いただこうと、は葡萄に手を伸ばす。大粒の葡萄は艶々と輝いて、新鮮でよく熟れていることが知れた。
「プッチ神父も召し上がりますよね？」
笑顔で訊ねてくるに、プッチはやはり笑顔で、しかし首を振った。
「でも、それじゃ……」
「君が喜ぶだろうと思って、そのままにしておいたんだ。遠慮せずに食べなさい」
「そうですか？ では、ありがたく」
はプッチの方をチラリと窺って、葡萄の粒をぷつりと房から取り去り、口へ運んだ。唇を開いて丸い粒を招き入れ、したたって服を汚さないように、指に着いた果汁を舐める。果肉を噛みこめば、芳醇な香りと贅沢な甘みが口の中に広がった。シャリシャリという皮の食感は小気味よく、そこから染み出る僅かな渋みが甘みと風味を引き立てる。それらをゆっくり味わって飲み下してしまうと、次の粒へ手を伸ばす。は嬉々として、それを繰り返した。房のこちら側の方が甘いかしら、それともこちらかしら、と言った様子で、そこここから粒を摘み取る。
プッチはその光景をしばらく笑顔で眺めていたが、そのうちにおもむろに自分も葡萄を一粒、房からちぎり取った。やっぱり食べることにしたのだろう、とが安易に考えていると、その手がの方へ伸びてくる。
「食べさせてあげよう、口を開けて」
は赤面して、口をもごもごさせる。
「でも、そんな……」
「いいから」
プッチの中指がの下唇を突いている。プッチがじっと見つめてくるので、は渋々、口を開いた。すぐさま口の中へ葡萄の粒が転がってくる。が口を閉じると、一回の噛む暇もなく、次の粒が目の前に差し出された。
「プッチ神父、まだ」
そう言って口が開いた隙に、葡萄を放り込まれる。驚いた拍子にもう一粒、二粒と押し込まれた。抗議しようとがプッチを睨むと、彼は楽しそうに微笑んでいる。そして、まだ葡萄の粒を差し出している。また入れられないように、は顔を背け、口元を押さえて、咀嚼を開始した。どうしてこんな意地の悪いことを、と心の中でぶつぶつ言っていると、突然顎を掴まれ、強引に上を向かされる。が驚いて目を見開くと、いつの間にか傍らに立ったプッチがいつになく柔和な笑みを湛えていた。しかし、その中に異様さと言うべき違和感を感じて、は身を固くした。
「プッチしん……」
恐る恐る呼んだ名を言い終わる前に、プッチの唇がのそれを塞ぐ。あ、と思ったときにはもう遅く、慌てて閉じようとした半開きの唇からプッチの舌がの口へと入り込んだ。葡萄で一杯のわけのわからないことになっている甘い口の中をかき混ぜて、歯の裏をなぞられる。そうされると、そこから痺れが広がって、唾液がますますの口の中で溢れてしまう。
「んん…んっ」
は抗議の声を上げようとしたが、口がぴったりと塞がれていて、それも叶わない。が何か言おうとしたのがわかって、プッチは葡萄に紛れている舌を絡め取り、表面をゆるく擦り合わせた。瞬間、甘い感覚が腰から背中を這い昇って、の体の強ばりが弛む。そのせいで、唇の端から、淡く葡萄色に染まった唾液が伝っていった。
プッチはに上から覆い被さるようにしながら、首筋をかすめるように指先を髪の隙間に滑り込ませ、熱い項を下から撫で上げ、髪の生え際をゆっくりとなぞった。そうしながら、少し唇の角度を変え、絡んだ舌を吸い上げる。
熱くてそこから溶け合いそうな舌と甘く脳に染み渡る葡萄の味わい、それに口の中がいっぱいでうまく息ができない苦しさがの理性を麻痺させて、快楽の記憶を刺激する。もう一度、項から首筋へやわりと撫でられると、それは顕著に感じられた。
「ふっ…ぅ」
一番敏感な舌先だけを、焦らすように、またその敏感さを試すように触れるか触れないかの柔らかさで舐られて、は喉を鳴らした。脳髄が痺れて、それが背筋を下っていくのか、それとも下腹部から甘い感覚が駆け上がってくるのか、もはや解らなくなり、またどうでも良くもなり、は快楽を与えてもらおうと、自分から舌を絡めた。その拍子にまた口から唾液が溢れ、頬から首筋を流れる薄紫の線が太くなる。
の口の中をプッチの舌が蹂躙していただけのキスがお互いの境目で絡み合うものに切り替わると、明らかに快楽の度合いが変わり、は歓喜した。自然と声が漏れ、体中をとろけるような快楽が満たしていく。がもっと、とプッチの首を抱こうとした瞬間、プッチが唇を離した。当然、もう一度合わさるだろうとは唇を緩く開いたのに、プッチがそのまま、余韻すらなく身を起こしたので、は唖然とした。一方のプッチは、何事もなかったかのように穏やかに微笑み、顎に手を当てて、そして、自分の口の中に移ってきた葡萄を噛みながら、本当に今年の葡萄はおいしいね、などと口にしている。
が信じられない心地でプッチをまじまじと見やると、彼はどうしたんだい、ととぼけた様子でに言う。
「……ひどい」
「何がかな？」
は上背のあるプッチを下から睨んだが、彼はどこ吹く風だ。相変わらず人畜無害そうな笑みを浮かべ続けている。
「私、そんなつもりじゃなかったのに」
が口を尖らせると、プッチは目を細める。すると、その瞳に初めて少しだけ、意地の悪い影が覗いた。
「どうしたいのか言ってごらん。そうしなくてはわからないよ」
プッチは腰を屈めて顔を近づけると、の頬に残っている甘い紫色の筋を指先でぬぐった。はぐっと身を引いて口を引き結ぶ。
悔しい。先に欲情したのはあちらなのに、溺れそうなのは自分の方なのだ。が強情を張ってつれなくしても、彼は追い縋ってもこないだろう。悔しくて仕方ない。でも、とは思う。そんなプライドが楯になっていても、もう欲しくてたまらないのだ。
は潤んだ瞳でプッチの目を見つめた。その目にも、信仰や慈愛の輝き以外の炎が揺らめいている。
「今は私だけを愛して、神父様」
は彼の首に腕を回し、プッチの熱い唇を求めた。
(2014.06.30 byずわ）